昭和四十三年一月十八日 朝の御理解


 「吉野山、踏み迷うても花の中」信心さしてもろうて、おかげを受けるとゆう事。どうゆう心の状態にならせてもらう事を願うかというと、どこにあっても神様の懐の中であるとゆう境地にならせて頂くとゆう事。だから、何時も有難い。こうだから有難い、こうだから有難くないとうゆうのがあってはいけない。                   信は力なり、信は光なり。難儀なら、同じ難儀な問題に甲、乙の人が直面している。甲の人は信心がある。その難儀を平気で持っている。むしろ有難いものになっている。乙の人は信心がない。本当に私が一人で苦労せんならんと思っている。やっとかっと、へとへとになっている。同じ問題であっても、信心のある者は、信心の光が真っ暗な中にも光を照らす。そうゆう力、光を頂く事に精進させて頂き、いよいよ光を求めていって、そこに悟りとゆうか、「吉野山、踏み迷うても花の中」どこにおっても神様の懐の中だとゆう境地が開かれてくる。信心とは不思議なものですね、この歌を御祈念中に頂きまして、教典を開かせて頂きました。そしたら、食物訓の「食物はわが心で毒にも薬にもなるものぞ」全然違った感じですけれど、考えてみればみる程、同じだとゆう事が分かります。食物に限らず、ここに難儀なら難儀な問題が起こってくる、この取り方のいかんによって、おかげになし、力にもなし、又おかげを落とす事にもなる。「何を飲むにも食うにも有難く頂く心を忘れなよ」同じでしょうが。どんな食物であれ、どのような問題であれ、それを有難く頂く心を忘れてはならないとゆう事。そこに結局心の健全を願わずにはおれぬ事を思います。
 次に「体の丈夫を願え、体を作れ、何事も体が元なり」体の丈夫を願わして頂くとゆう事は、言わば心の丈夫を願い、どうぞ何を頂きましても、頂きこなせる心を下さいと願えとゆう事。体を作れ、何事も体が元なり。体を作り心を作れ。どうゆうおかげを頂くにしても、心が元ぞという事。御教えの深さ、食物だけでなく、心に与える糧。何を食うにも飲むにも有難く頂く心を忘れなよ。どのような問題であっても、有難く頂く心を忘れてはいけないという事です。中には臭いものもあれば、苦いものもある。どう思っても臭くて食べられない。けれども、そこのところをです、この胃をいよいよ健全にならしてもらう薬と思うて頂けば、おかげになる。
 昨日、福岡の高橋さんが、向うの職人さん三人を連れてお参りになった。その中に中村さんとゆう職人さん。言わば出前もするし、寿司も握るとゆう、その方が二ヵ月前に免許証を紛失しておった。そして高橋さんを通して、又自分でも、どうぞおかげ頂きますようにと、お願いがしてあった。その時に免許証の再交付を願ったら良かろうか、願わんが良かろうかとお届けされた。私は、願わんでもよかろうと申しました。私がそう申しておりましたから、出てくるものと思っておられた。で、くる毎に、その事のお願いをされる。二ヵ月経った昨日、中村さんが二ヵ月過ぎました。どんな風にしたらよいでしょうか、とお届けされる。そしたら再交付を願われたがいいでしょう。後ろで高橋さんが、オヤとゆう顔をして振り替えられる。中村さんはどうかとゆうと、「おかげ頂きました」と言われる。信心なぞ分からない風をしておられるのですけれども、高橋さんが、中村さんの信心は私共がびっくりするような心の飛躍をとげているとゆうお届けをされるんです。もうそのへんの私のお取次のしよい事、しよい事。どうでしょう皆さん、二ヵ月程、再交付は願わんでもいいと云われ、二ヵ月目に再交付を願ったがよかろうと云われる。そげんこつなら、もう少し早う云うて頂けりゃ良かったつに、私は、でてくるものとばっかり思っとつたつにとは思いませんか。そして中村さんが云う事には、ほんとにそりゃ、免許証を紛失しましてから二ヵ月間、本当におかげ頂きました。その為に、おかげ頂いて、神様にお縋りして、初めの方は、やはり免許証が出て来ますように、出て来ますようにとお願いしていた。そして修業させて頂くようになりましたら、修業の有難さが分かってきたとゆうのである。免許証やらどうでもいいとゆう気持ちになってきた。むしろ大将の高橋さんがですね、あれはあのままでいいのでしょうかとゆう時に、まだ出てきませんといった響きが内容にあったのです。ところが中村さんの場合、ひとつもひっかかってこんのです。所謂心が進展していくとゆうか、心が飛躍していくとゆうか、素晴らしい事だと思いますね。そして考えてみますと、二ヵ月間店の方が忙しくて、出前に行くとゆう事がなかった。成程神様が、出前に行くようになってからお許しを頂けた事がよう分かります、とお届けされる。高橋さんが、後で一寸話が違いますねといった顔をして来られる。高橋さん、あんたより素晴らしかばい。心の飛躍の仕方を話した事でございました。信心は確かに、そこんところをスキッと頂けるかどうかという事です。二ヵ月間も願い続けて来られた。しかもすぐにも再交付を願えとおっしゃるのなら話はわかるのですが、再交付は願わんでもいい、願わんでもよいといいながら日が経った。その為に、一通りの修業をさせて頂いた。それを、私は中村さんが云う事には。「先生、私は悪い夢やら頂きますと、必ず悪い事が起こってまいります。良い夢を見ると、良い事の起こってきたためしがありません。」と云われる。だから、あんたはおかげ頂いとるばい。悪い夢を見たら、その悪い事が、起こってこんじゃろうかとゆう思い込みが強いのですね。だから悪い事が起こってくる。だから信心とは、良いお知らせを頂いたら、必ず良い事が起こってくるという事を信じられる為に修業をするのです。ですから、中村さんに云うのです。あれは不思議な事で、悪い事は、どうも心から離れんのですよね。あんな夢を見たが、悪い事が起こってきはせんだろうか、とゆう思いが切なのです。だから悪い事が起こってくるのです。それを信心さして頂くようになったら、それをひと修業などさせて頂いて、その悪い事なら悪い事を、大難は小難に、小難なら無難にとゆう心であるからおかげ頂きます。良い事を頂きましても、それを分からせてもらうだけの信心修業が出来るところに、今年は必ずおかげ頂くぞと、いよいよそれが信じて強くなってくるのです。その意味で、あんたはおかげ頂くばいと申しておりました。
 ところが最近中村が食を断っておりますとゆう。何か免許証が出てくるようにか、あるいは、どうも三福の店の為に修業しよる風でございますとゆう事であった。いいえ、そげなこつじゃありません。こうゆう事があったから、信ずる力を頂く為修業しよるとですよと云いますと、ははあそげなこつですかと、高橋さんも言っていました。
 そうゆう例えば、いろいろの修業をさして頂くうちに、心が、その事なんか問題でなくなってきた。たいがいの者が、これは二ヵ月間も経つから出てこんのやろうと、先生がいらん事云われるから出てくるだろうと思っていた。二ヵ月後お伺いしたら、そんなら交付願いを出したがよかろうと云われると、皆がっかりした顔をするのですよ。そんなら先生、早う云うて頂けりゃ交付を受けて早う車も使われていたのにとゆう様な顔をする。口では云わなくても、このへんの所の心のすっきりする修業がお互いなされなければならない。信心が、心が、そのように進んでいかなければならない。
 私は、今朝からお夢を頂いておった。私の小学校の時の友達で、大塚正一とゆう人が、秋永先生の仕事の上での関係もあって、椛目時代にお導きして参ってきた。旗崎におるとゆう事であったから、そんなら旗崎教会でおかげ頂きなさいと言って、今では、あそこの中心的な存在で、信心の稽古をしている。その人と二人、道を歩いていっていたら、いわゆる関門みたいな所を通らねばならん時、下から頭から入ってゆかねば、向うに出られんとゆう訳なんです。大塚君は向うへすっと行った。ところが私は頭が大きいから、どうしても通らんのですよ。そしたら誰かがですね、「通られん事がおかげぞ」と云うて頂いたところで目が覚めた。そして私は、いろいろ思うてみた。本当に私の一生を振り返ってみますと、小学校の時は六年間、しもやけで冬の間は学校へ行けなかった。中学校に行けるはずのが行けなかった。帰ってきて本格的に酒屋をやろうと思ったら企業整備で出来なかった。例えばこのように、いけなかった、いけなかったの連続なのです。ですから出来なかった、自分の思うようにならなかったとゆう時を、いかに大事にしなければならないかとゆう事です。それから振り返ってみて五十五年間なら五十五年間出来なかった、出来なかったの連続。結局、私が、ああありたい、こうありたいと願っていた以上の事に、何時もなってきている。私の願いが成就するといった様な事ではなくてです、私共の願い以上の事が成就されてゆかなければ、本当のおかげではない。それには出来なかった、困った、でてこなかった事が、いつもおかげになっていくのです。そこんところのスキッとおかげの頂ける信心を頂かねばならん。「何を食うにも飲むにも有りがたく頂く心を忘れなよ」有難く頂こうと思うけれども、胃が健全でない為に、有難く受けられない。吐き気がする、ムカムカする。そこで「何をするにも体が元なり」体の丈夫を願え、何をするにも、おかげ頂くには、まず心が元なり。心の丈夫を願え、心の健全を願えとゆう事になってくる。そこに、心の丈夫を願わしてもらうところに心が健全になってくる。それこそ、自分の思いの反対の方へ反対の方へということになってきても、有難いと受けていく事が出来る。しかも、その有難いとゆうものがすきっと心の中に納め切る事が出来る。信心とは、結局光なり、信は力なり、そうゆう場合、どれ程の光が頂けるかというところに信心の焦点を置かねばならないとゆう事が分かってくる。そうゆう信心が繰り返され繰り返されしていくところに、例え左と願って右であっても、それが自分が思うところではない、これこそ道を踏み迷っている様にあるけれども、どんな中でも花の中にあるという事、自分の思うようにならん、そこでもやはり天地の親神様の懐の中であり、金光大神の祈りの中に、皆さんで云えば、親先生の祈りの圏内にあって、このような事が起こってきているのであり、ああゆう事があるのである。ここんところを信ずる力を、皆さんが頂いていかねばならんとゆう事です。
 頭が太いばっかりに、ここを通られない。はあ自分は頭が太いばっかりに通られん。何と親は、こげな頭を大きゅう生みつけとるもんじゃけん、何と情けないこっちゃあると、云う人があるかもしれん。けれども、さあ通れなかったばっかりに、私は現在のおかげ、云うなら大塚正一も大坪総一郎も、そうかわりはない、です。大塚正一、大坪総一、たいして変わらん。が、片方は通ったばっかりに、旗崎の御信者さん程度です。そんなら私は、そこを通らなかったばっかりに、現在がある。だから、親が、こげな風に頭でっかちに生みつけたもんじゃから、本当に親を恨むより他はなかといったような事はなくていいでしょうが。通られなかった事は、通られなかったとして頂ける信心。それを頂ける為には、修業をしておかないと、それをスキッと有難く頂けないとゆう事です。
 本当におかげ頂いて有難い。二ヵ月間信心の修業をさして頂いた。二ヵ月前交付を願っていたら、何にも得るものがなかったであろう。交付を受けて、単車に乗ったかもしれん。怪我したかもしれん。でも二ヵ月間の間です、その交付を受けなかった間に、自分の心が進展していった、飛躍していった。そして神様を恨むどころじゃない、本当に有難い二ヵ月間であったと、それはもう実にすっきりした受け方、頂き方である。そうゆう心が、自分の心に育っていくところに、おかげを頂かねばならない。そうゆう信心を続けていくならば、「吉野山踏み迷うても花の中」とゆうように、どこに行っても極楽?、どこに行っても有難い、とゆう気持が開かれてくると思います。どうぞ。